“マリア・チェボターリの想い出に”
モーツァルト/歌劇「ドン・ジョヴァンニ」〜ぶってよ、ぶって、あなたのツェルリーナを
プッチーニ/歌劇「蝶々夫人」〜いつの日にか、またお会いしましょう・名誉ある死
プッチーニ/歌劇「ラ・ボエーム」〜私の名はミミ
プッチーニ/歌劇「トスカ」〜美しさだけのために人生を捧げるのですか?
ビゼー/歌劇「カルメン」〜何を恐れることがありましょう
ヴェルディ/歌劇「椿姫」〜さようなら、過ぎ去りし日よ
マリア・チェボターリ(S)
ゲルハルト・ステーラー指揮 ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団
マリア・チェボターリ(1910-49)は旧ロシア領ベッサラビアのキシナウに、教師の娘として生まれました。
聖歌隊で歌っていた頃からその卓越した歌唱力を発揮、地元のキシナウ音楽院で学びます。
モスクワ舞台芸術団のキシナウ訪問が彼女にとって大きな転機となり、ルーマニア語とロシア語を話すことの出来る彼女はその一員となりました。後にそのマネージャーと結婚、1929年には歌手デビューを目指してパリに渡ります。
その後まもなくベルリンに移り、マックス・フォン・シリングスの勧めでベルリン高等音楽学校の教授、オスカー・ダニエルの下で学ぶことになりました。
その間にも彼女の才能は周囲に知れ渡り、ドレスデン国立歌劇場のフリッツ・ブッシュは3年間の契約を交わして、1931年にラ・ボエームのミミ役でデビューを果たしました。
同じ頃ブルーノ・ワルターはザルツブルク音楽祭の「オルフェオとエウリディーチェ」に彼女を招いています。
24才の1934年には、"Kammersangerin"(元の宮廷歌手)に任ぜられ、ドレスデンで大きな成功を収めます。
その後、1936年から1943年の間はベルリン国立歌劇場の第1プリマを務めました。
1943年には戦禍でベルリンの家を破壊されたため、招きによりウィーン国立歌劇場に移り、以降、生涯籍を置いていました。
第二次世界大戦中、及び戦後はアムステルダム,バーゼル,ベルン,フィレンツェ,ミラノ,ミュンヘン,ローマ,プラハ,ストックホルム,ヴェネツィア,チューリッヒを含む多くの歌劇場にゲスト出演しましたが、1949年、肝臓と膵臓にがんが見つかり、2か月後に亡くなりました。39才という早過ぎる死でした。
10インチ・フラット盤。
レーベル/原産国: 独DG/ ドイツ・プレス
レコード番号: LPE 17099、10インチ盤
レーベル,プレス情報: 黄, 大Tulip/ Deutsche Grammophon Gesellschaft、厚手フラット盤
Stereo/Mono: Mono
盤のコンディション: NM-〜EX+
ジャケット(ボックス)のコンディション: EX〜EX-(少々ヤレ,汚れ)